昭和46年09月18日 月次祭
20年分の疲れが出ましたね。普通ならね、何時から何時までだと言う事ですけれども、私は今日思いましたね、本当にこの、好きな事をすると言う事はこんなにも有難い事なのかという、信心話を聞いてもらう。私の信心を聞いてもらう。それをまた聞く方が一生懸命、話す方も一生懸命。そこに何と申しますかね、聞く者、話す者の心が一つになって解け合うような感じで、昨日今日を過ごさせて頂きました。
あれはどうでしょうね、お話をしとりましても居眠りをする人がある。立ち上がる人がある。もう、退屈そうにこうこうする人があるなら(笑い)、お話の方もそら大変にきついですよ。それは例えば二時間受け持たなければならんというような。けれどもね、もうその聞く人達が私の話を、こう引き出して下さるような感じです。あるいは3時間と言われてもいい、3時間やっぱ話すでしょうね。
もう限りなくお話をさして頂いて、本当に好きな事をさしてもらうと言う事は疲れが出ない。まあそんな実感で昨日、今日おかげを頂きました。久振りで今日は若先生と丁度繁雄さんが見えておられましたから、その久冨繁雄さんと3人で、もう久しぶりで若先生と一緒にお食事をさして頂いた。若先生が食事をしながらこんな事を言うんです。私が2時間も3時間も話しを立ってすると言った様な事を、知らないもんですから、まあ内心先生がどんな話をするじゃろうかと思うてから、まあ子供ですよね。
内心心配しておった。「ところがもう、昨日、今日の先生の話を頂いておって改めて親先生を見なおした。もうそれこそ親ながら、惚れ惚れとした」と言うんです。やっぱそういう、子供から言われて気色の悪い事はない。やっぱ嬉しい。どういうところがそんなに惚れ惚れとしたか。「第一ね、もう話の間の素晴らしい事に驚いた」。これはもうお芝居でも何でも、間の悪い人は駄目ですね。踊りなんかでも。
やはり話しと話のその間というものがですね、考えさせなければならないとこを考えさせ、もう矢継早に押し込まなければならんところを矢継早に押し込んで行くと言った様なね。「同時に先生のね、話される態度が素晴らしかった」ちゅう事を言う訳なんです。(笑い)。もう本当に親ながら惚れ惚れとしたと言うて、まあ言うのを聞かせて頂いて、その事だけではないね、子供から惚れられるという事。親が。家内から主人から親からね。 私はそういう私を目指さなければいけないと思うね。
信心とはそれだと私は思うんです。ある教会の、まあ他所の先生の話としてではおかしいですけれど、お取次を御婦人の方がお参りをすると裏からずっと奥様が出て来なさる。して後ろからこうやって聞きます。どげな事話しよるじゃろうか、そしてからその何かお届けが終わったりお話が済むと「あなたが話したたっちゃ同じ事」ちて、後ろのむごうの奥さんが言いなさるそうです。
「あなたは御結界からばっかり向う言うたっちゃ」。その先生は非常に女癖の悪いお方。ですからもう、女子の方がお取次を願われると(笑い)、もう俺はじっとしておられんから、裏から出て見えてから、それはどんな事を話しよるじゃろうと、聞き耳を立てなさる。そして信者の前でですね、やっぱりちょっと、ちょっとまあおかしいね、ヒステリックな方でしょうね、奥さんが。けどもそのヒステリックにしたというのもやはり、私は親父だと思うですね。
その先生に言わせると、「そうだから私は信心ができました」と言われておるんですね。だからそれもまた有難いです。けれどもね、例えば肝心、要の家内から惚れられないと、信用されないとね。それこそ何処と欠点のない主人を持ちながら、「たまに傷だよ」というようなそれなんです。(笑い)ね。浮気癖があるという訳なんです。これで神様にいや、家内に惚れられるという事は難しいね。
家内に信用されると言う事です。親でも子でも同じ事。信心というのは私は本当にね、自分の周囲の人達からね、惚れられるほどしの内容を作っていく事だとね。もう家のお父さんがもう、お広前だけではもうぴしゃり、もう親先生の前だけではまあちょっとぴしゃりあるばってん。帰ってきたらもう、二人見るごと変るという人がやっぱあるんです。この人おかげ頂かんはずはないがなあと思うてね、それはもう本当に私の前やお広前ではもう素晴らしいご信者さんである。
ところがもう帰るともう、わんぱくさんですね、言うならばね。それでは私はおかげにならんと思う。ですから私は本当に、今日は私、お話の中にですね、土井の久富さんの事を聞いてもろうたね。素直と言う事。青年教師の方に一番、まあ欠けておる物は辛抱力と素直な心だと、いったような事を今日は話した。その素直の例という物を繁雄さんの例をとってまあお話をさして頂いた。ね。
本当に親先生の前で繁雄さんというのはもう本当に素直です。もう性根がだいたい素直にできておられる。ですからあれが、家内の前でも子供の前でも嫁の前でもね、親先生の前でのような本当に純粋な素直さになりきられた時に私は本当の繁雄さんの素直な徳というものが生まれる。「何事も素直心の一つにて、雲の上までも昇れる道」はそこからついて来るんだと私は思う。
合楽で稽古をなさっておられる、親先生に日夜奉仕をさして頂いてね、あの人の真似の出来ない純粋さというか素直さを持ってです、家内に接し子供に接し嫁に接し主人に接しておいでられたら、根が素直な物を持ち合わせておられるのであるから、いわゆる素直な徳というものはもう何処ででも素直でなからなければならないという事なんですね。なら、繁雄さんが、家庭ではワンマンであるかと言うたらそうでないです。
やはり素直な方なんです。けれどももう一つそこにですね、合楽で頂いておるような無条件な素直さというものを家庭の上に現していかれなければ、いわゆる「雲の上までも昇る道」がつきません。只家の親父は素直だと、というのは場合によると、悪口の場合もあるんですからね。ですからこれは、繁雄さんだけの事じゃないです。皆がそうなんです。皆はもっとそうなんです。惜しいな、と思うです。
そこでね、私共がおかげを頂かしてもらう、それこそ自分の周囲の皆から惚れられるほどしの私になるという事のために、最近では体質改善という事が言われております。これは教団でもそれが言うておられます。教会の体質改善。教会の体質改善と言うよりも、教会長の体質改善にならにゃいかんと思うですよね。 教会ばっかりがあれこれ形の上に改めたところで何になるか。教会長自身が体質を改善しなければいけない。皆さんの家庭でもそうです。
最近、日田の綾部さんの所で本当にいよいよこれは綾部さん、綾部商店の体質改善が始まりましたねと言う様な変わり方をして行きよるんです。10年も15年も番頭さん達が女中さん達がね、勤めておった人達がですね、それが自慢でしたです、大体ね、綾部さんは。自分方がらが言わば、おり心地が良いから皆がそんなに勤めてくれるんだとやっぱ思うておられたんです。
ところが、のっぴきならない事情でその人達が全部変る事になった。さあいよいよ変る事になったらもうとんでもない事が発見しだしたんです。あまり任せ切っちゃるんです。(笑い)。これじゃあ、と言ったような、なるほど神様が出しなさる筈だと言う様な事になって来たんです。そして新たに入って来る人がそれこそ、待ってましたと言わんばかりにです、月末にひまを取って帰れるともう月初めにはちゃんと来てると言った様な具合におかげを頂いているね。
これはお店の体質改善ができていきよるしるしだ。それは店主であるところの綾部さん、あなた自身が最近体質改善ができていきよるから、お店の上にそういう変化が起こって来たんだとまあ言うておる訳であります。お互いの家庭もそうです。今のままではやはり今のままのおかげなんですからね。それで甘んじておれば、もうそれで仕方がない。けれどもいよいよおかげを頂きたいと思うなら、本気で家全体の体質改善を願わにゃいかんです。これが家の流儀だからなんて言って。
その流儀が素晴らしい事のおかげにつながる流儀ならまだ良いけれど、いわゆるおかげにも繋がらない有難いというものにも繋がらない流儀ならば本気で一掃さしてもろうて、体質改善に務めさして頂かなければならん。そこで言うなら体質改善をさして頂こうと思うけれども、実を言うたらなかなか体質改善ができません。どういう訳に体質改善、体質改善をする事のためにはどう言う様な信心にならせて頂いたなら良いかと言う事なんであります。私は思うですね。
人間の、例えば体質改善というような事はどうしてどういう訳に、その体質がおかしくなって来たかと言うと、第一、食物だと思うんですね。言うなら偏食をする。甘い物は好きだけれども辛い物は嫌、辛い物は好きだけれども苦い物はごめんというようなですね、そういう例えば生き方で経ってはいつまでも辛い物は辛い物、甘い物は甘い物で終わってしまう。そこでそれは嫌いでもあろう、辛い物は嫌いでもあろう、甘い物は嫌いでもあろう、臭いものなんかはいよいよ嫌だろうけれどもです。
さあそこんところを一つ、偏食しないように、甘い物も辛い物も酸い物も甘い物も、苦い物でも、ね、与えられる物ならば「神様頂きます」という心で頂かなければならん。自分で求める事はいらん。神様がそういう気にならしてもろうたらね。今日星野教会の池上先生が発表しておりました。もう今度の青年実習会でね、もう昨日からもうえらい感激しておるんですよ。「もう本当に昨日からこちらの親先生のお話を頂かしてもろうて、私の思いが一変した。
今まで難儀と思うておった事がもう難儀ではない事が分かって来た。もう本当におかげを頂いた」と、そのそんな発表をしております。その中にね昨日から聞かせて頂く、例えば事柄を御事柄として受けて行くと言う事の、これを実行したら成程本当に素晴らしくなる事であろうという事を感じたね。今まではそういう苦い事はごめんだと、臭い物はまっぴらだと言うておったのがです。
これからは本気でそれを頂こうという姿勢を今度の実習会で頂いたと、昨夜からしきりにもう会が済んだ後に私の所へ来てからしきりに言われるんです。珍しいですね。だいたい池上先生はそんな人ではなかった。今までは。もうどっちかっちゅうならもう合楽は冷たーい見方しかしなかった人。それがね、もう人相が変るほどに、昨日はそれを言われるんですね。もうすでに体質改善の第一歩が始まったという感じがする。
そう言う事になってきたら、これは私の心からかもしれんけれども池上先生の人相が変って、今までの池上先生ではないものを感じたね。心の中にね、いわゆる満たされたと言うかね、言わば、いろんなものがね、一様にこれに入って来る。栄養になる物ね。甘い物苦い物、いろんな物が、丁度このミックスされてこの中に入って来る。ですから自ずと体質改善は、これはその生き方さえ体得さして頂いたら。
必ず体質改善は、私は可能だと思う。改めて言う事もないけれども、確かに成り行きを大事にして御事柄を本気で頂こうというその御事柄の中には、甘い事あり、辛い事あり、臭い事あり、苦い事ありである。その一切を合掌して受けて行こうという受け方。そういう生き方ね。そこに私はね、子供から惚れ惚れとね、したと言われるほどしの、例えばなら私がどんなに態度が良いとかね、お話に例えばいつも頂いているお話でも新たな事として頂いたと言うてもです。
その私のはあ家の親父があげんして話しよるばってん口で言う事とする事はもう全然違うと思たら、そげな感動は湧かないと思うですね。親先生が口で言われ、いやもう本当言うたら、裏ではもっと素晴らしいと言う様なものを知ってる訳なんです。子供達がね。そして初めてなら2時間なら2時間、3時間なら3時間しかも日々。今朝なんか私丁度、お届けだけが8時まで掛りましたからね、さあ急いで御飯頂こうと思うて食事ができとる所へ、もう8時半からの、座談会ですから、まあこんな感じた訳です。
だからすぐ出てくれと言うそれでもう。御飯も頂かずにもうぶっ続け、とうとうお昼も抜き。お昼までですかね、もうぶっ通しに、御用させて頂きました。そういう例えばなら、生き方がです、私の生き方がお広前と裏でとの、例えば、手のひらを返すようにもし私が変わるとするならばです、家内は惚れてはくれませんでしょう、子供は信頼してくれないでしょう。けども影になれば影になるほど親父の言う事する事成す事を見ておりますからね。はあ信心とはこれだなあと思うて日頃見ておるのに。
今日はそれが表面に出て来た。お話で。だから改めて親ながら惚れ惚れとして見なおしたとこういう訳でありますね。まず自分の一番身近な人達にね、やはり惚れ惚れと見られる私にならして頂く事を努めなければいけません。専念しなければいけませんね。それには何と言うても、私自身が体質改善を思い立たなければいけない。そこから家風が変わるでしょう。家庭の全てが、変わってくるでしょうね。そこにいわゆる、家庭中の者の信じ信じられる仲が生まれて来るね。
家の家内がどうもとか、家の主人が信じられないとか、子供が信用されないとか。昨日、一昨日でした、光昭がここに出てきてから、えらーいこう言いにくそうにしてから、夜、何かお届けしよる。何じゃろうかと思うたところが、「僕は今日、あの『梅幸』さんの御芝居に招待を受けておる」と「それで行っても良いでしょうか」こう言う訳です。「行ってよかろうじゃろうが何処から招待を受けておるの」ちゅうたら、久留米の何とかというバーのママさんよ(笑い)。
ほう本当にいつのまにこんなに成長しただろうかと。まあ久留米に時々、友達と一緒に行って、その「けどあんただけが招待されちゃちとおかしかね」と、例えばちっとは思いましたけれどもね、まあお取次を頂いて行く事だからと思いましたね。それからあのそんなら行っておいでと、と言うてからやりました。そしたら晩もう遅う帰ってまいりました。そしてそのママさんという人と、自動車の運転手と3人連れで送ってもらって来ておる。ね。なるほど会わせて頂いて、本当に取り越し苦労だなあ。
心配なんかいるこっちゃない雰囲気を見せて頂いて。それからゆっくりさして頂いて、私も帰られるまで、起きて待っとりましたが、もう本当に、親が取り越し苦労をする事じゃあないなあという事ね。だから私も思うた。また来て下さいと言えるような感じの人達でした。日頃、親の例えば祈りの中にある。自分の祈りという事を例えば信じておるならば、どういう事を聞いても心配する事はいらんという事です。また彼も私をそれを信じておる。お届けをさして頂いても決して心、後ろ暗い事ではない。
親にお取次を頂いてお願いをして行けば、安心だというふうに、頂いておるんのじゃないかとこう思うね。多くの子供を持っておりますとね、やはり思春期に入り、未成年期に入らせて頂くと、いろんな問題がやはりあります。けれどもそういう子供達のいちいち、ね、もう言う事する事の全てをです、親が信じられると言う事は、このように有難い事はないですね。また子供もそれを信じて親に打ち明けて話せれると言う事はこんな素晴らしい事はないですね。信じ信じられる世界。
信心の世界とはね。それをだんだん越えてまいりますところからね、神様を信じ、また、神様から信じられると言う事であります。いろいろ私のお話を聞いて下さると必ずその神様からこう頂いたああ頂いたという話が出てまいりますから、言うならば、神様との対話という事がです、非常に問題になったらしいです。昨日の夕べの懇談会でね。いわゆる、神様とこうお話し合いができるという事なんだと。これはね、なら皆さんだって皆お話が実はできているのだ。
皆さんが言うておられる事はみんな神様が聞いておられるのだ。それに対して神様がご返事を下さってあるのだけれども、聞く耳を持たんから仕方がないのだね。大阪あの郊外ですかね、片島せんという大変、女の先生で霊徳に優れた先生がおられました。この方が、ね、ある時に神様から頂かれた。もういちいち神様からお知らせがあるね。そしたら神様がおっしゃったね。「世界中の氏子と話がしてみたい」とおっしゃった。本当に世界中の氏子と神様が話をね。
なさる事ができるようになったら、それこそ世界真の平和は絶対なんだけれども、人間の幸せは絶対なんだけれども、「聞く耳を持たんからせんない」とおっしゃったそうです。「聞く耳を持った氏子がおらん」とおっしゃるね。ですから私共が例えば神様に申し上げておる事、いわゆる見通し聞き通しなのであるね。神様は聞いて下さってあるのだと。けれども、そのご返事を頂く耳を持たないのだから、その頂く方も頂き心というものを作れというのが信心なんです。
おかげの受け物とはそれなんですね。それにおかげが受けられるのです。その受け物におかげが現われるのですね。そこで私共が「信心は日々の改まりが第一であり、信心とは本心の玉を磨くものじゃ」と教えられるのですから、本気で素直なら素直というところに焦点を置いてより改まり、より磨いて行こうその事を持って改まり、これを持って磨く材料にさして頂こうという生き方ね。同時に受ける方としてはね、神様が下さるものならば、神様の御事柄として、神様の御物として頂こうという。
私だけに下さる、これはもう苦いからごめんこうむりますと言わずに、それを頂こうというその修行。そこから体質改善は生まれて来るね。そこから本心の玉は磨かれてくる。改まりに改まらせて頂くところから、ね、今まで自分にも気付かなかった、自分の素晴らしい事を自分の心の中に感ずる事ができる。われとわが心を拝めれるという事。というほどしにです、私は自分というものを高めさして頂く。自分で自分の心が拝めれる時に子供は私を拝んでおるでしょう、家内は私を拝むでしょう。
ここで言うなら、信者の皆さんは私を拝まれるでしょう。私自身がわれとわが心を拝めれると言うておる。今日はね。それを目指しての信心でなからなければならない。体質改善を目指さなきゃいけん。その体質改善のね、一番ポイントになるところは偏食をやめなければいけない。あれは好かんこれは嫌と言わずに一切合切を有り難く頂かせて頂くというところにですね。
玉水の湯川先生ではないけれども、一切合切を有り難く受けていけば、一切合切がおかげであり、金光教は極楽の世界だとおっしゃっておられますね。そういうおかげを頂かせて頂くために、一つ体質改善。合楽だけではない自分の家庭であってもやはり、自分の信心はこれだと思うたその信心を貫かせて頂くところからね、いよいよ光を増してくるおかげ。力を受けていくところの信心ができると思うのでございます。
おかげを頂きまして有り難うございました。